独立政権と北方支配〜栄華を支えた蝦夷ヶ島〜
奥州藤原氏が権力を生み出した秘密はどこにあったのか?通常であれば,北奥の金と馬を商品として得た富と答える。しかし,平泉政権を支えた地域はもうひとつあった。それは,蝦夷ヶ島,現在の北海道である。
例えば,藤原基衡は毛越寺を建立するとき,本尊の作成のため仏師に支払った「功物」として,奥州の産物とともに,北海道の産物である鷲羽(オオワシ,オジロワシの尾羽)と水豹(アザラシ)の皮をあげていた。これらの主産地は道東である。しかし,道東産だけでなく,サハリンやアムール川流域の羽も道北のアイヌを介した交易によって入手され,「粛愼羽」とよばれていたこともわかっている。
1126年3月,藤原清衡は中尊寺伽藍の完成に際し,供養願文を捧げている。そのなかで,自らを「俘囚の上頭」の地位,つまり北東北・北海道の蝦夷の首長とし,さらに「粛愼・ユウ婁の海蛮」,つまりサハリンからアムール川流域の人々をも従えていると主張した。(実際は交易の管轄)
最近,北海道胆振管内厚真町の宇隆1遺跡で,常滑焼の壺が出土した。時期は常滑第Ⅱ期(1150〜74年)で,北海道発の発見。入手ルートは平泉経由と考えられる。壺の形状と遺跡の立地から,この地に作られた経塚の外容器の可能性が高いと判断されている。厚真は室町時代に和人海商の交易拠点が形成された鵡川に近く,北は富良野・上川,東は十勝から道東に通じる陸路の結節点である。これらのことから,この地に平泉時代,平泉政権から派遣された和人が居住し,おそらく現地の首長たちと共同して鷲羽や水豹皮を恒常的に入手するための交易センターを設け,仏教の普及にも努めていたと思われる。
平泉政権は,「交易」を通じて北海道の蝦夷の人々を管轄した権力であった。厚真での常滑焼の壺の発見は新しい平泉像を開かせてくれるものである。
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