講談社の『日本の歴史』をまとめて,竹崎季長が『蒙古襲来絵巻』を書くにいたる物語を書いてみたので紹介する。
佐賀県には「むっくりこっくり」という方言があるそうだ。「むくり」は蒙古,「こくり」は高麗の意味で,「無理矢理に」という意味をこめて使っているらしい。この地域の人々が今でも「むっくりこっくり」という言葉を使うのは,それだけ,文永の役でモンゴル・高麗連合軍が与えた影響はとても大きかったと言える。
文永の役は,凄惨を極めたそうである。
「蒙古人は,駆け入った武者を大勢で取り囲み,足や手をつかんで引きずりおろし,討ち取った。だから敵陣へ向かった人々は,一人として帰ってこなかったのだ」(『八幡愚童訓』:筧雅博「日本の歴史10蒙古襲来と徳政令」講談社より引用)
その様子を絵によって知ることができるのが「蒙古襲来絵巻」で,これを描かせたのは竹崎季長という御家人である。彼の文永の役前後の行動を紹介しよう。
季長は一門の有力者に所領を奪われ,今は屋敷しか持つことができない御家人だった。彼にとってこの戦いで活躍し「勲功」をあげることは,自分の所領を回復,あるいは新たな恩賞を給与されるチャンスだったのだ。彼はわずか四騎の騎馬を率いて一番駆けの勲功を得るべく,敵陣へと駆け入った。蒙古兵へと突入した季長らが驚いたのは,相手が馬をめがけて矢を撃ってきたことである。鎌倉武士たちには,相手の馬を狙わないというルールがあったため,季長らは馬を護る鎧などは装備していなかった。馬からふるい落とされれば,大勢の蒙古兵に囲まれて討ち取られてしまう。危機は目の前に迫っていた。そこに幸いにも,肥前国御家人,白石通泰が百騎余りを率いてきたため,蒙古兵は後方に退き,何とか季長らは助かった。これによって季長は一番駆けの功名を手に入れる。
その後の戦いの経過は絶望的なものだった。退却する御家人たち,逃げ遅れた人々は連れ去られ,最後まで抵抗した人々は内臓をえぐり取られる。この時に感じた人々の恐怖心こそが,今に残る「むっくりこっくり」という言葉に表れている。戦いはその夜,モンゴル・高麗連合軍が退却したことで集結した。
九州の守護が御家人たちの戦功を鎌倉に報告した書類には,季長の一番駆けの勲功があるはずだった。しかし,季長に届いた報告書の写しにはこの戦いで負傷したことしか書いていなかった。季長は,鎌倉幕府に自らの戦功を訴えることを決意する。馬と鞍を売って旅費とし,旅立つ季長を見送る人々は誰もいなかった。
鎌倉に着いた季長を迎えたのは,執権の義理の兄にあたる安達泰盛という幕府の有力者だった。季長は盛泰に「自分が一番駆けをしたことを大宰府に照会してほしい」と訴えるが,本来であれば現地への照会はできないことになっている。しかし,泰盛には幕府の規則を超える力があった。泰盛は将軍家に一番駆けの功を伝えることを約束し,恩賞として肥後国海東郷の地頭職が与えられた。
帰国を急ぐ季長へ,泰盛は黒栗毛の馬と鞍をはなむけとして贈った。この一連の物語が絵巻物になったのは,約20年後のことである。しかし,すでに安達泰盛とその一族は霜月騒動によって平頼綱に滅ぼされていた。絵巻物が描かれはじめたのは,平頼綱が滅ぼされた,1293年の事である。
参考文献:筧雅博「日本の歴史10蒙古襲来と徳政令」(講談社)
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