約20年ほど前の高校生の頃には,初期荘園なんて言葉を知らなかった。(用語集には載っているので私の勉強不足というのもあるが・・・)当時は,自墾地系荘園で習うものだったが,今ではその言葉を使う教科書は減ってきているようだ。
「日本史用語集」(1989年)では,自墾地系荘園が19教科書中10
「日本史B用語集改訂新版」(2001年)では,自墾地系荘園が19教科書中5
どうしてこの言葉が使われなくなったのかは,わからない。(申し訳ない)
ということで,どこかの文献に答えはあるのだろうが,私の予測としては院宮王臣家や大寺社が直接開墾したように感じさせる言葉を使わないようにしたからだと思う。開墾には地方豪族の力が必要であり,経営には国司の力も必要だったのだから,「”自”墾地系」という言葉を避けるようになったと。
また,初期荘園とその後の荘園との違いで最大のものは,そこに人が住んでいたかということである。初期荘園では専属の荘民がおらず,農民に1年契約で賃租して経営されていた。その農民を選ぶなど初期荘園の経営には,国司や郡司の協力が必要だったために律令制の衰えとともに初期荘園は姿を消してしまう。それに対して,その後の荘園(寄進地系荘園,領域型荘園)は,専属の荘民が存在する。
この初期荘園が成立する原因となったのが,743年に施行された墾田永年私財法である。
私が高校生の頃のこの法に対するイメージは,公地公民を崩し律令制衰退の原因をつくったものというものだった。しかし,今では律令に規定されていなかった開墾を法制化し,開墾地も国家が把握していこうという積極的な政策で,律令制度を補完したものだという見方がされている。
山川出版社教科書のように,百万町歩開墾計画(722年),三世一身法(723年),墾田永年私財法(743年)を連続させた流れで扱うことが多いだろうが,教科書によってはこんな扱い方もある。
橘諸兄政権は,地方豪族の協力をえて諸国の国分寺の建立を促進するため,743(天平15)年に墾田永年私財法を施行
「高校日本史B新訂版」(実教出版社,2008年)
同じ節の中で百万町歩開墾計画と三世一身法,墾田永年私財法を扱ってはいるが,国分寺建立の詔や大仏造立の詔の流れの中に入れているところが面白い。
『続日本紀』では,「限満つるの後,例に依りて収授す。是に由りて農夫怠倦して,開ける地復た荒る」という説明は読んで納得できるが,三世一身と墾田永年の間の20年で,開墾者が三世代目というのは考えにくい。また,開墾者が死期を悟って耕作を放棄したというのも可能性として無いわけではないが,いかがだろう。
そう考えれば,三世一身法と連続させるより,鎮護国家政策と関連づける法が時期が近いだけにわかりやすいところも出てくるのかもしれない。
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