藤原京は規模の小さい都城であると習ってきたが,現在では平城京や平安京と同じ規模の都だったと考えられている。また,奈良,京都の都が中国の都城をまねたように,藤原京もそれに近い形式だと思われてきたが,藤原京は街区の中心に王城が配置される独特の形式を持っていたことがわかってきた。藤原京に対する理解は大きく変化している。
自分が高校の頃,1989年の山川出版社「日本史用語集」では,藤原京について以下のように解説している。
東西の京極は大和の古道である中ツ道・下ツ道を利用し,南北は横大路・山田道で限られている。
これで言うと中ツ道と下ツ道の間は,2km強ほどになる。これだと,平安京の東西約4.5km,南北約5.3kmよりはるかに小さい規模である。しかし,今の教科書では藤原京の規模について以下のように記述している。
現在では東西10坊(約5.3km),南北10条におよぶ正方形の範囲をもつと考えられている。この都市計画はのちの都城にみられず,正方形の都城の中央に宮殿をおくという中国の思想にもとづいて,理想的な王城を形にあらわしていたらしい。藤原京は,平安京にも匹敵する規模と,長方形ではなく正方形,王城が北の奥ではなく街の中心につくられた独自の都だったのである。
「高校日本史B新訂版」(実教出版社,2008年)
藤原京は天武天皇が構想し,持統天皇が実現したものである。天武は,飛鳥浄御原令の制定,豪族の身分秩序の形成,富本銭の鋳造など,天皇の神格化と権威向上に努めるべく中国を手本とした政治を進めようとしていた。しかし,当時は白村江の戦い後の朝鮮半島,中国大陸に対する緊張状態が続いているために,中国への使節を派遣することができない状況だった。そのため彼は中国の古代の思想から学ぼうとしたらしい。それが正方形で王宮を中心に配した王城の建設につながったと考えられる。
では,どうして藤原京に対する研究に間違いがあったのか。それは研究者たちの思いこみによるものである。誰もが日本の古代国家の都城は中国の都城をまねたものであるから,王宮よりも北に街区が広がることは考えていない。だから,調査する必要がないと考えたのだろう。そして,王宮をはさむ形で南北に延びる中ツ道と下ツ道の二つの街道は,北へゆくと平城京の朱雀大路と東京極につながるという都合の良さもあって,藤原京のエリアはその中であると思い込んでしまったのだろう。
どうしても過去をみる時にはフィルターを通して見てしまう。それが過去を正確に知ることを阻害してしまう例はこれだけではない。思いこみによって過去を見ることが,間違った理解につながってしまう危険性を感じながら学んでいかなければいけないのではないか。
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